聖労の由来

聖労院について(聖労の由来)

聖労の由来

古来「四恩報謝」教誡がある。天地の恩、父母の恩、国の恩、衆生の恩、これ即ち所謂四恩である。自分では立派に独立の心身だと思っていたものが、熟慮精察すれば、そこに驚くべきことを知るのである。わが心身こそは自ら生きているものではなくて、上下左右から支えられ、恵まれて生かされているのだということである。すべての人は、時、処に拘らず、何人か何者かによて支援せされ、助力せされ生きているのであって、決して単独無援の生活はありえないのである。 これが人間生活の実相であるとするならば、我々の一挙一同は隣人のためになり、又ならねばならないのである。隣人の為になり社会の為になることなれば、それは如何に賤少なものであっても人間の本務であることに於いて無二の尊さがあるのである。従って「幾ら得る」というよりも「役立つ」、「何に如何にして役立つ」ということを考えるべきである。「働かせて貰う」「役に立たせて貰う」とその全身全霊を捧げて行こう。この最も聖い労働、報いを求めない労働を称して「聖労」と呼ぶ。感恩の奉仕がその根本をなしているのである。

東京聖労院の起こり

本院は創立者金田日出男が、大正7年、函館のスラム街に所有図書を開放して貧児教育を目的に無料学園を開設したことに依る。これより数年を経て当地の世相をみるに、関東大東災で家を失い、衣食にも困る絶望感から社会の底辺に落込んだ人達が、悪質周旋屋の手で北海道へ季節労働者としてどんどん送り込まれてきた。その多くは「タコ部屋」での重労働。雪の降る冬を目前に一文なしで放り出される人もいた。こうした虐げられた人々が帰京したくて辿りつく先がこの地、函館のスラム街大高森であった。 生きんが為には遂に犯罪者となり、乞食となって良民の生命財産に危害を加え、終生救われざる人間に陥る有様をみるに忍びず、同志谷田實とともに私財を抛って彼等を収容保護し、指導教化に努めることとなった。このスラム街の人達と寝食を共にするうち、やがて「東京から送られてくるのだから東京で食いとめなければ」と考え、同志と相謀り大正15年6月上京。浅草の山谷に泊り込み、毎日のように「エンコ」といわれた盛り場に出掛けては木賃宿に浮浪者を連れて来て、更生への道を歩ませた。 この努力は報いられ、昭和3年2月11日、当時の社会事業団体、恩賜財団慶福会から800円の基金を受け、同年3月市外高田町雑司ヶ谷588番地に収容所を設置し、本部を同所に移して、ここに「東京聖労院」が誕生した。

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